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東京地方裁判所 昭和47年(刑わ)989号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、

被告人は、昭和四六年一一月二五日午前一〇時ころから同日午後一時三〇分ころまでの間に、東京都杉並区○○○×丁目××番××号甲野太郎方前付近路上において、同人所有の中古自転車一台(時価五、〇〇〇円相当)を窃取したものである。

というのである。

≪証拠省略≫を総合すると、昭和四六年一一月下旬ころ、東京都杉並区○○○×丁目××番××号甲野太郎経営の甲太商店前路上又は同区下井草三丁目一四番二一号同人の自宅前路上のいずれかに駐車しておいた同人所有の自転車(以下、本件自転車という。)が盗難にあったこと、この自転車は、同月二七日に発生した杉並警察署での爆発事件に使用された自転車と同一であることを認めることができる。

そこで被告人が本件自転車を窃取したものであるかどうかにつき、以下、証人乙山月子、同甲野太郎、同甲野花子、同丙川星子の供述を中心にして順次検討を加える。

一  証人乙山月子の当公判廷の供述について

1  証人乙山月子は、

(一)  昭和四六年一一月二五日午後二時前ころ、同人のアパート(○○○○所有)の階段を降りた位置の道路上において、右アパート左隣りにあるマンション前道路上に自転車を止めてその荷台の荷掛けひもの止金(以下、止金という。)に結んであるビニールひもを手ではずしていた男の姿を認め、その様子を一・五ないし二メートルの距離から見ていたところ、そのうちに、その男は、右マンションの、道路をはさんで前方の杉並革新連盟事務所からマッチを持ち出して、右荷台左側後部の止金に結んである前記ひもを焼切ろうとしていたところを見たが、右男は、「坊ちゃん坊ちゃんした感じ。」で、色は白い方であるし、右自転車は青っぽい感じで泥よけが本件自転車と多少違っていたようだが、この男は被告人であり、右自転車は、本件自転車と同一であると思うと供述し、

(二)  そのときの目撃状況については、右のような情景は別にめずらしいことではなかったが、自分がけがで療養中であり何もやることがなかったのでただ漫然と見ていたもので、その男の顔は右連盟事務所から出てきたときに一瞬見ただけであり、これまでに被告人とはあまり付合いはないが近所だから一、二度見たことがあるが、その男の顔は被告人と比較して、あごの線が細いような気がする。荷台の、焼き切ろうとしていたひもの長さははっきりしないし、結び目と反対の方の端はどうなっていたのか判らない、荷台に他のひもが付いていたかどうかも知らないと供述し

ている。

2(一)  右供述のうち、その男が被告人と同一であるという点についてみると、同証人の目撃態度は、特別に興味をそそるような状況とはいえないことから、ただ漫然と見ていたというのであって、そもそも同証人の記憶もその当初において曖昧なものであったといわざるをえない。このことは、同証人の、荷台のひもや自転車の特徴についての曖昧な供述からも十分にうなずける。そして、目撃した男についての特徴も、単に坊ちゃん坊ちゃんした感じで、色が白っぽかった、と述べるだけであるが、これも、知覚、記憶の当初からその程度であったことが、同証人の供述中からうかがえるのである。もっとも、人の記憶の中には具体的な特徴は記憶がなく、根拠もはっきりせず、十分な説明はできないが、感じで確かであるということもありうるのであるから、右のことからただちに同証人の供述は信用できないものとはいえない。しかし、同証人の供述によれば、捜査の過程で右の男が被告人であると捜査官に指示特定するに至った経緯をみると、同月三〇日に杉並警察署の警察官が証人のアパートを訪れ、○○○○方応接間で話しているとき、開いていた窓から、あらかじめ同証人から男の特徴を聞いていた警察官から指し示された男をみて、「焼切っていたのはあの男です。」と被告人である旨を特定していることがうかがえるが、このような被告人特定のいきさつをみると、当該警察官の示唆誘導により被告人の特定がなされている疑いが極めて濃く(後記のとおり、証人丙川星子についても、警察官による執ような誘導が試みられていることを想起するべきである。)、証人の、当公判廷で、この被告人よりもあごの線がもっと細いような気がする旨の前記供述にあわせて、≪証拠省略≫を総合して認められるように、被告人は、同月二五日午後二時ごろには日用品共同購入の注文取りのため杉並区の堀ノ内、大宮地区の家庭を回っていたことなどを総合すると、証人乙山の、当日目撃した男が被告人である旨の供述をもとにして、この男が被告人であると断定するにはいささか疑問を持たざるをえない。

(二)  次に乙山証人目撃の自転車が本件自転車と同一であるとする供述についてみると、同証人が右自転車の同一性を肯定する主たる根拠とするところは、本件自転車の荷台に、その止金に結びつけられていたビニールひもの焼切られた残りが付いていたという点である。たしかに右のようにビニールひもの焼切られた残りが付着していたとすれば、目撃自転車についての特徴を殆んど記憶していない証人にとっては唯一かつ重要な証拠である。それだけに証人のひもを焼切ろうとしているところを見たという供述は慎重に吟味しなければならないところである。

(イ) 同証人は、自分は、昭和四六年一一月二八日午後二時前ころ杉並警察署の警察官に、「男は自転車の荷台のひもを引張っていたが取れないらしく、それをマッチで焼切っているのを見た。」と話し、翌二九日、同警察署で本件自転車を確認したのであるが、そのさい、自分は、刑事さんに、「もし同一だとしたら、焼いた跡が残っているんじゃないですかといいました。」、そして自分で自転車を裏返して見分したら、荷台左側前部の止金に焼跡が残っていたが、この焼跡については、警察官は、まだ見分して知しつしている様子ではなく、このとき初めて発見したという感じであったと供述している。しかしながら、司法警察員作成の同日付実況見分調書及び領置調書によると、同月二八日午後八時から同八時四〇分にかけて、本件自転車荷台前部のビニールひもの先端に焼跡のあるものについて実況見分がなされ、かつ、同日、右ひもを白ビニールひも、ゴムひも、木綿ひもなどとともに右自転車から取外して領置されていることが認められるのであるが、同証人の供述によれば、捜査官が、同月二九日同証人に右自転車を見分させるさいに、同証人の要請により、自らその自転車を裏返して、焼けた部分のあるビニールひもを指摘したのであるが、そのとき、捜査官が初めて右ビニールひもの焼けた部分の付いていることに気づいた態度であったというのであるから、右証人に見分させるにさいしては一たん領置していた右ビニールひもを再び本件自転車荷台に取付けたうえで見分させるという操作をしたうえ、同人の指摘により初めて右ひもの付着に気づいたように装ったものと考えざるをえないところ、このような措置に出たとすれば、これは明らかに見えすいた演技であり、その見分の方法などの捜査過程においてもはなはだしく疑問をもたざるをえない。

この点につき、右実況見分調書の作成者渡辺辰己は当公判廷において、右実況見分は一一月二八日午後八時から同八時四〇分までと翌二九日の午後三時三〇分から同四時三〇分までの二回にわたって行われたのに、実況見分の日時の記載を失念し、二八日の日付だけを記入したものであり、一たん領置した右ビニールひもを再度自転車に取付けたうえ、証人に見分させたものでないと供述するけれども、右渡辺の供述は、同人の当公判廷における供述態度及びこの点に関する乙山証人の供述などに照しこれを措信することができない。

(ロ) 昭和四六年一一月二七日付渡辺辰己作成の実況見分調書によると、立合人佐藤巡査部長は、本件爆発事件発見当時の状況につき、「自転車が横倒しになり、後部荷台の工具箱の様なものから、炎と白っぽい煙が自分の背丈ほども立ちこめていた。」と述べており、また、同調書によると、右自転車の荷台につけてあった工具箱は、ゴムひもが焼切れて離れており、工具箱のあった位置の周囲が黒く焦げていたことが認められるので、右自転車の荷台止金のビニールひもが、右爆発により焼切れたことも考えられないわけではない。

(ハ) 司法警察員作成の昭和四六年一一月二八日付実況見分調書によれば、本件自転車荷台の左側前部の止金にビニールのひもが結び付けられ、その先端は焼けて萎縮しており、その長さは結び付けた状態で三・五センチメートルあることが認められる。しかしながら、同証人の目撃した自転車に付けられていたひもの結び付け部位は、荷台左側後部の止金である旨を一貫して供述している。検察官は、右のくい違いは、単なる記憶違いであって、問題とするに足らないと主張するが、この点に関する証人の供述をみると、終始一貫して、結び付けられた位置が異なっていたと明確に断定しているのであり、図示しているのであるから記憶違いとして一掃することは疑問であるといわざるをえない。

(ニ) 検察官は、荷台に焼残ったひもが付着していることは特異なことで、このことは、本件自転車との同一性の証拠になると主張するが、包装用に用いられたビニールひもを荷掛け用に用いることはわれわれの日常経験するところであり、それがほぐれないためにマッチを用いて焼切るということも稀有特異なこととはいえないから、検察官の右主張もその特異性のゆえをもって、いまだ本件自転車との同一性を根拠づけえないというべきである。検察官主張の他の理由もいずれもその同一性を肯定する証拠になりえない。

以上のように、本件自転車と、同証人目撃の自転車の同一性についても、同証人の供述は措信できないし、他にこれを認めるに足る的確な証拠はない。

以上のとおりであって、同証人の供述により、被告人が本件自転車を窃取したと認めることができないことは明らかである。

二  証人丙川星子の当公判廷の供述について

証人丙川星子は、

1  杉並警察署で本件自転車を使用した爆発事件のあった昭和四六年一一月二七日午前一一時前後ころ、同警察署前路上を通りかかったところ、同警察署前に自転車が置かれていたのを見たが、これは本件自転車と同一の自転車と思うし、またこの自転車の側に二人の男がいて、自転車を持った男が、「こんなところに置いて大丈夫か。」と他の男に話かけていたが、このうちの一人が被告人にほぼ間違いないと思うと供述し、

2  この自転車は、宮田自転車の製造で、色はクリーム色と水色か紺色の二色、ハンドルは旧式で荷台には鉄製のような工具箱が積んであり、自転車の側にいた男のうちの一人は、「ちょっと色白でぽちゃぽちゃしたような感じ。」で「髪の毛がこう横になっていた。」が、この男は、警察官に示された一〇枚くらいの写真のうちの被告人の写真にほぼ間違いないということで警察官に調書をとられたと供述している。ところで同証人の供述中、目撃した男二人のうちの一方が被告人にほぼ間違いないという点については、同証人の供述全体をみると、終始右の男が被告人であると断定することは避け、被告人に似ている、あるいは近いというのであり、「自転車を持っていた人はこの人ですということは今でも申上げられませんよ。」とさえ述べているのであり、さらには、警察での捜査過程をみても、同証人の供述によると、右爆発事件後少したってから警察官の聞込み捜査が同証人に対してなされ、同人の供述調書は昭和四七年七月と同四八年の二回にわたって作成されているが、その間、警察官がいく度となく「波状攻撃」的に被告人の写真四、五枚を含む写真一〇数枚を持参して同証人方を訪れ、同人にその確認を求め、当初は、被告人の写真をみて、「大体この人に近いようですがはっきり断言できません。」といっていたが、昭和四八年になって、モンタージュ写真を作成するから本庁まで来てくれといわれて、「被告人にほぼ間違いない。」と証言し、その結果、モンタージュ写真を作る必要がないといわれたということであり、右写真の中から被告人を指示させるときも、警察官が同証人に会うたびに「この写真じゃないか、この写真じゃないかといって新しいのを見せたり、前のをみせたりした。」ことから結局右のような供述をしていることが認められるところ、以上は、警察官による巧みで執ような示唆誘導の結果、当初は漠然とした感じを述べていたが、ついに被告人にほぼ間違いない、と供述するに至ったという疑いが濃いこと、(これは、被告人を一度も見たことのなかった同証人が、前記の程度の目撃した男についての印象で、一年以上たった後になってはじめてほぼ間違いないと供述するに至ったことによっても推測される。)などからみるとにわかに信用し難く、同証人の供述によって、その目撃した男が被告人であると断定することはとうていできないといわなければならない。また、同証人の目撃した自転車が本件自転車と同一であるという点については、同証人の供述によれば、同人が自転車に興味をもっていたということであるが、そのようなことから同人の目撃自転車の特徴についての前記供述は、本件自転車との類似性をうかがわせるものがあるが、これについても、前記のような同証人に対する捜査態度や同証人の当公判廷の供述態度を総合すると、同証人が保有していた記憶に基づくというより、むしろ捜査官の暗示に基づくものではないかという疑いを持たざるをえないので、結局同証人の目撃した自転車が本件自転車と同一であるとの同証人の供述はたやすく信を措きがたいものがある。

三  証人甲野太郎、同甲野花子の供述について

以上によれば、検察官が、被告人が本件自転車を窃取した事実を認めるに足りる証拠としていた前記各証人の供述は容易に措信し難く、他にこれを認めるに足りる証拠はないのであるが、なお念のために、証人甲野太郎、同甲野花子の供述を検討しておくこととする。

証人甲野太郎は、本件自転車が盗難にあったのは、昭和四六年一一月二五日(以下、二五日という。)である、従来、前記自宅と甲太商店の間を本件自転車で往復していたが、当日夕方になり本件自転車がなくなっていることに気づいたので、息子の嫁に聞いたら、盗難の当日の朝一〇時ころ、本件自転車に乗って、歯の治療を受けに、歯科医院まで行ったということで、これが二五日であるから、盗難にあったのは、二五日に間違いないと供述し、証人甲野花子は、自分は同日、午前九時二〇分ころ、甲野太郎方にあった本件自転車で近くの○○歯科医院に歯の治療に行き、同日午前一〇時一〇分すぎころ、甲太商店に帰り、同店右側ガレージの塀の前に無旋鍵で置いていたところ、当日夕方義父(太郎)から自転車を知らないかといわれたが知らないと答え、翌朝になって前日歯科医院に乗って行ったことを話した、右日時は、右病院での治療の初診日であったから、二五日に間違いない、と供述している。

ところで、右各供述のうち、証人甲野太郎の、本件自転車の盗難日が二五日であるとの供述は、このように断定するに至った根拠として、甲野花子が○○歯科に治療に行った初診日が二五日であるといったことに依拠しているのである。すなわち、甲野太郎の司法警察員に対する昭和四七年一月一三日付及び同年一月一四日付各供述調書によれば、盗難の日時は、昭和四六年一一月終わりころで日は記憶がない、と供述しているのであるが、同証人は当公判廷で、その後捜査官から「二五日ではないか。」といわれ、「当日に息子の嫁の甲野花子が歯科医に行ったというので、その日を割出しました。」と供述しているのである。しかしながら、後記のとおり、甲野花子が二五日が盗難日であると断定した根拠は乏しいのみならず、証人甲野太郎は、前記の供述によると、右各調書作成の段階(昭和四七年一月一三日及び同月一四日)ですでに二五日が甲野花子が歯科医院に行った日であることを知っていたと思われるのに単に一一月終りころあるいは一一月末で日は憶えていないといっておきながら、その後二五日であると特定している経過をみると、いささか不自然さが残り、さらに、甲野太郎作成の被害届によると、被害届の日が同月二九日、被害日時が同月二七日午前一一時ころから同日午後九時ころまでとなっており、右被害届の記載が不合理であるということの理由も見出し難く、これらの諸事情に照せば、同証人の供述はにわかに措信できず、本件自転車が盗まれたのは、被害届に記載された日ではないかとの疑問も残る。

また、証人甲野花子の供述についてみると、同人は、本件自転車が盗難にあった日を二五日と断定するに至ったのは昭和四七年一月になってからのことであり、二五日という日も記憶していたわけではなく、診察カードによって特定したのであり、要するに「二五日が盗難日と特定した理由は、当日が初診の日だったからである。」というのであるが、「初診日」が二五日であることから、当日が盗難日であるということにはならないこと(同証人が初診日が盗難日であるとする根拠はまったく存在しない。)、同証人は、これまでにも、○○医院で初診を受けたことがあるのみならず、本件自転車を使用して右医院に通院したこともあること、二五日以後は本件自転車に乗ったことはないということの理由として、二五日に盗難にあったのだからそれ以後に乗るということはありえないというのであるが、これは二五日以後使用していないという理由にはならないことなどの諸点に鑑みれば、同証人の供述にも多くの疑問が生じるのである。

以上みてきたように、被告人が本件自転車の犯人であると断定するには、かなりの疑いが残るのであって、他に有罪の心証を形成させるにたる的確な証拠はなく、結局被告事件について犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条後段により、被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 樋口和博)

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